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X JAPAN TOSHIの若い頃を振り返る ~幼少期から解散まで

芸能界

幼少期から音楽に親しみ、情熱を傾けてきた伝説的ロックバンド「X JAPAN」のボーカリスト、TOSHIさんの若い頃の音楽への道のりをご紹介します。

この記事では、TOSHIさんが歩んできた軌跡と、X JAPANがメジャーデビューを果たし、全盛期を迎え、解散までの激動の歴史に迫ります。

音楽の力と情熱に満ちた壮大な物語をお楽しみください。

  • 幼少期の音楽の出会いからバンド結成メジャーデビューの軌跡
  • 脱退とX JAPAN解散理由

 

1. X JAPAN TOSHIの若い頃を振り返る

TOSHIさんの若い頃~幼少期からの音楽との出会い、バンド結成そして、X JAPAN全盛期への軌跡を振り返っていきます。

 X JAPANのTOSHIさんの幼少期と音楽への関心

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出山利三さん、通称TOSHIさんは、1965年10月10日に公務員の父とピアノ講師の母との間の三男として千葉県館山市で誕生しました。

彼の子ども時代は意外にも静かなものでしたが、学校生活が始まるとともに、彼の中に秘めたスポーツへの情熱が姿を現し始めます。

母親はTOSHIさんが手がかからない良い子だったと振り返っています。

音楽との初めての出会い

TOSHIさんは、幼少期から音楽に対する強い関心を抱いていました。

小学校に上がるなり、彼はギターを弾き始め、同時にピアノのレッスンも受けていたのです。

この時期に彼の音楽への興味が徐々に育まれていったことが伺えます。

母親が元ピアノ講師だったことも、音楽との触れ合いに大きな影響を与えていたと考えられます。

友人との音楽活動

小学校4年生の頃には、親友のYOSHIKIさんと共にバンドを結成しました。

彼らは近くのスタジオでアメリカのロックバンド「キッス」の楽曲を練習するなど、音楽活動に力を注いでいました。

幼少期から築いた友人関係が、音楽の道を切り開く大切な要素となったのです。

家族環境と音楽への影響

TOSHIさんは、両親と3人の兄弟の5人家族として育ちました。彼は末っ子として、たっぷりの愛情に包まれて育ったことでしょう。

音楽に親しむ環境が整った家庭での生活が、彼の音楽への関心をさらに深める結果となりました。

 ブラスバンド部に所属していた中学時代

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TOSHIさんの中学時代は、音楽との関わりをさらに深める重要な時期でした。

館山市立第二中学校に入学したTOSHIさんは、ブラスバンド部に所属し、ユーフォニウムという金管楽器を担当しました。

楽器選びの葛藤

当初、TOSHIさんはフルートやサックスを演奏したいと考えていましたが、既にその楽器には空きがなく、仕方なくユーフォニウムを担当することになりました。

彼の心の中には「実は他の楽器をやりたかった」という気持ちがあったものの、ブラスバンド部での経験は後々の音楽活動において貴重なものとなります。

譜面を読む技術が身についたことで、彼の音楽的な基盤が形成されたのです。

バンド仲間との出会い

中学1年生のとき、TOSHIさんはYOSHIKIさんとともに「NOISE」というバンドを結成しました。

そして、彼はバンドのギタリストとして活動し、二人で音楽を創り上げる楽しさを味わいました。

彼らは当時から自分たちのスタイルを模索していきました。

活動の中での成長

ブラスバンド部での経験は、TOSHIさんにとって新しい音楽的視野を広げるものでした。

ユーフォニウムを通じて、他の仲間たちとの共同作業を経験し、音楽の楽しさや難しさを学びました。

また、演奏会やイベントでのパフォーマンスを通じて、自信もつきます。

転校と新たな挑戦

中学3年生の時、館山第二中学校から館山第三中学校に転校し、TOSHIさんは新たな環境で野球部に所属します。

前の学校でのブラスバンド部時代は、彼の音楽的な成長を支えた大切な経験として大きな役割を果たしました。

音楽とスポーツの両立を通じて、若き日の彼は自分自身の可能性を広げていったのです。

 TOSHIさんとYOSHIKIさんの高校生活とバンド結成

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バレーボール部での成長

TOSHIさんは千葉県立安房高校に進学し、高校時代にバレーボール部に所属していました。

チーム自体は強豪校ではありませんでしたが、彼は厳しい練習に励む中で「気合、根性、そして大声での掛け声」の大切さを学びました。

このスポーツでの経験が、後の音楽活動にも影響を与えることとなりました。

バンド「X」のスタート

高校1年生の頃、TOSHIさんは幼馴染であるYOSHIKIさんと共にバンドを再結成し、「X」という名を付けました。

 

左がYOSHIKIさん、右がTOSHIさん

TOSHIさんがボーカルを担当し、YOSHIKIさんがギターを弾く形で、オリジナル曲を演奏する自主コンサートを開催し、少しずつ観客を魅了していきました。

文化祭での華やかなパフォーマンス

文化祭では、TOSHIさんとYOSHIKIさんのバンドが多くの観客の心を掴み、何千人ものファンを集めることに成功しました。

彼らは当時流行していたアメリカのロックバンドの楽曲を取り入れ、日本の音楽シーンに新たな風を送り込みました。

このようにして「X」の名は徐々に広まり、多くの支持を得ることとなりました。

YOSHIKIさんの創造性

TOSHIさんは、YOSHIKIさんのプロ意識や音楽に対する情熱に常に影響を受けていました。

YOSHIKIさんはステージに立つ際にメイクアップを行い、視覚的な表現にも力を入れていました。

それに対し、TOSHIさんはバレーボール部での影響から、最初は丸刈りでパフォーマンスを行っていました。

この異なるスタイルの融合が、彼らの音楽に独特な魅力を与えていたのです。

学業と音楽活動の両立

TOSHIさんにとって、学校生活と音楽活動は切り離せないものでした。

授業や部活動の合間を利用してバンドの練習に励んだことが、彼自身の音楽的成長に大きな影響を与えました。

 メジャーデビューと全盛期への道のり

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バンド名の変更と戦略的な進化

X JAPANは、当初「X」という名前で活動を始めていましたが、バンドの知名度が上がるにつれて、名前の変更が求められました。

1992年に「X JAPAN」へと改名したことで、海外市場への進出を意識し始め、国際的なアーティストとしてのアイデンティティを確立するための一歩を踏み出しました。

この決定は、英語で「Japan」の名を冠することで、海外のファン層を広げるための戦略的なものでした。

デビューシングルの成功

1989年にリリースされたデビューシングル「紅」は、彼らの名を広めるきっかけとなり、一躍注目を浴びました。

この楽曲は、力強いギターリフとドラマティックなメロディーが特徴で、X JAPANのスタイルを象徴するものとなりました。

続いて発表された「Forever Love」も大ヒットを記録し、シングルチャートの上位にランクイン。

これにより、彼らは日本の音楽シーンで確固たる地位を築くことができました。

アルバムのリリースと革新的なスタイル

1991年、彼らの初アルバム「Vanishing Vision」は、瞬く間に50000枚以上の売り上げを記録しました。

この成功を受け、X JAPANは次々と新作をリリースし、多様な音楽スタイルを取り入れることでさらなるファン層を拡大しました。

特に、「Art of Life」に収められた22分にも及ぶロックオペラは、彼らの音楽的冒険の象徴であり、極めて革新的な試みとして評価されました。

ワールドツアーと国際的な成功

全盛期に入ると、X JAPANは日本国内にとどまらず、海外進出に本格的に取り組むようになります。

1992年には、アメリカツアーを敢行し、日本のバンドとして初のニューヨークライブを実現。

彼らの影響力は瞬く間に広まり、アジア以外の地域からも熱烈な支持を受けるようになりました。

このツアーでは、ファンとのインタラクションを重視したパフォーマンスが話題となり、彼らの独特のスタイルを世界中に広めることに成功しました。

音楽とビジュアルの融合

X JAPANの全盛期においては、音楽だけでなく、ビジュアル演出も重要な要素として位置づけられていました。

アートワークやライブの衣装、ステージセットに至るまで、視覚的なインパクトが彼らの魅力の一部を形成していました。

特に、ドラマティックなパフォーマンスを前面に押し出すことで、観客の心を捉えるだけでなく、ヴィジュアル系という新たな音楽ジャンルが確立される礎となりました。

クライマックスとその後

1996年、X JAPANは日本武道館や東京ドームでのライブを成功させ、その名は日本国内外で轟き渡りました。

当時のファンはもちろん、音楽業界全体に対する影響力は計り知れません。

このようにして迎えた全盛期は、彼らのキャリアにおける頂点とも言える瞬間でしたが、その後の解散やメンバーの苦難など、波乱に満ちた道のりが続くことになります。

2. 解散とTOSHIさんの脱退理由

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絶頂期からの葛藤

X JAPANが絶頂期に達した頃、TOSHIさんは心の中で大きな葛藤を抱えていました。

バンドの成功と引き換えに、TOSHIさん自身の音楽に対する思いが次第に薄れていったのです。

YOSHIKIさんが創り出す楽曲には、細かい感情や意味が込められており、それを忠実に再現することがTOSHIさんにとって大きなプレッシャーとなっていました。

レコーディングにおいて「その歌い方だと、人の心はうてないよ」と言われる度に、彼の精神的な負担は増大していきました。

関係の悪化

このような高い要求の中、TOSHIさんとYOSHIKIさんの関係は徐々に悪化していきました。

音楽の方向性や各メンバーの役割についての意見の食い違いが生じ、TOSHIさんは次第に集団から孤立した感覚を持つようになりました。

人気が上昇する中、レコーディングの回数も増え、ますます緊張が高まっていったのです。

生活の影響

TOSHIさんが抱えていたのは音楽だけではありませんでした。

家族の金銭トラブルや人間不信の状態が彼の心を蝕んでいました。

そんなとき、元嫁の香さんが彼を啓発セミナー団体に引き入れようとしたことも大きな影響を与えました。

周囲の人間を悪者扱いし、自身に対する信頼を失わせる言葉をTOSHIさんに投げかけ、彼は次第にX JAPANから距離を置くようになってしまいます。

突然の脱退

TOSHIさんがX JAPANを脱退したのは、元嫁との結婚からわずか2カ月後のことでした。

この決断は、彼自身が長年の音楽活動の中で苦しんできた結果であり、精神的な解放を求めた一歩でもありました。

脱退後、TOSHIさんは音楽から離れ、田舎の生活を始めたり、自己啓発に没頭するようになりますが、そこでも心の内側は暗い影に覆われていました。

X JAPANの解散

TOSHIさんの脱退が影響を与え、1997年にはX JAPANが解散することとなりました。

解散の最終的な理由は、TOSHIさんの音楽性や方向性の違いだけでなく、引き裂かれたメンバー間の信頼も深く関わっていたのです。

音楽的ヒエラルキーが崩れ、バンドとしての一体感を失ったX JAPANは、再結成の道を選ぶまで長い間活動を停止せざるを得ませんでした。

x japan toshi 若い頃について総括

  • 幼少期からの音楽的素養と仲間との絆が、X JAPANの飛躍につながっていった
  • 才能の開花と引き換えに、自身の心の内の葛藤が、バンドの解散につながった
  • 音楽に対する強い思いから、現在も音楽を通じて再生の物語は続いている